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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第74回 またも舞台は大倉山か?

2022.10.15

文章の一部を参照・引用される場合は、『大倉山STYLEかわら版!』(令和4年10月号)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


 昔、劇作家の久保栄は戦中戦後の大倉山を舞台にした『日本の気象』という戯曲を書きました(「わがまち港北」第45回参照)。ほぼ同じ時期の大倉山を舞台にした小説が今年(2022)2月に発表されたことを、つい先日知りました。
 9月3日港北公会堂で「『港北地域学』特別講演会 建築家隈研吾氏 大倉山を語る」が開催されました(横浜日吉新聞港北映像ライブラリに紹介あり)。その中で、隈氏から耳寄りな情報を教えていただきました。戦時中、隈氏の母親は防空壕で本を読むのを楽しみにしていたのですが、知人の社会学者古市憲寿氏にその話をしたところ、古市氏はわざわざ大倉山まで取材に来て、小説『ヒノマル』(文芸春秋、2022年)を書いたというのです。
 早速、読みました。巻末の参考文献の1つには隈氏の『僕の場所』があり、加えて謝辞にも隈研吾氏の名前が書かれていました。
 『ヒノマル』を読み進めると、「麹町で小さな医院を営んでいた父は、土いじりに凝るようになって神奈川の観音山に土地を借りて、ついに家まで建ててしまった......東京で空襲があるという噂が強まるにつれて、家族で引っ越して来た」(p19)、隈氏の祖父は東京で医者をしていましたが、まさしくこのようにして大倉山に疎開し、深堀医院という耳鼻科の病院を開業しています。
 「この集落では、どこにいても観音山がよく見えた。駅前の坂道を線路沿いに登っていくと、公園の入口に突き当たる......春には梅林目当てに観光客が集まるという......大きなハナミズキの木の隣には、園内の地図が掲示してあった」(p23)。まさしく大倉山公園とその梅林そのものですね。大倉山の辺りは、昔は本当に観音山と呼ばれていました(「わがまち港北」第70回参照)。
 主要登場人物の一人で、洞窟を秘密の図書館にしていた一ノ瀬涼子は大倉高女の生徒です。昔、本当に大倉山高等女学校がありました(「わがまち港北」第142回参照)。涼子の家は、「観音山公園の麓に位置する瀟洒な洋館だった。巨大な二階屋で、全体が乳白色で統一されている。いくつもの柱が屋根を支える様子は教科書で見たギリシャ神殿のようでもあった。白亜の神殿を取り囲むように樹木が植えられ、雨に濡れた大きな楠は、塀の外まで張り出している」(p62)「玄関は、上野にある帝室博物館の中央ホールのような吹き抜けになっていて、大階段が二階へと続いている」(p63)と書かれています。まるで大倉山記念館のようです。
 大倉山のことを良く知る地元の私たちが読むと、古市氏が丁寧に取材されたことがよく分かりますね。
 小説は、昭和18年7月、主人公の中学の1学期終業式の日から始まります。興味がある方は、図書館でお読みください。(S.H)

【掲載写真:昭和15年の大倉山駅から記念館坂(宮田富雄氏撮影、宮田道一氏提供)】
「三角屋根をした観音山の駅」「駅前の坂道を線路沿いに登っていくと、公園の入口」、本に書かれた観音山駅とよく似た景色です。

(2022年10月号)

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