第76回 オオゾネとキシノネ
- 2023.01.15
文章の一部を参照・引用される場合は、『大倉山STYLEかわら版!』(令和5年1月号)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。
歴史を学んでいると、現代の私たちが持っている常識や当たり前と思っていることが、実は少し前までは非常識だったと気付くことがあります。
横浜市内の町名は、市の条例によって漢字表記も読み方も1つに定められていますが、昔はそうではありませんでした。第70回で大曽根を「おおぞね」という古老の方がいると紹介しました。それを示す記録を見つけました(下記写真1)。1899年4月発行の『東京人類学会雑誌』第157号の口絵にアルファベットで「ŌZONE」と書かれています。東京から大曽根へ遺跡の調査に来た学者達は、「おおぞね」と聞いて書き留めたのでしょう。
1830年に11代将軍徳川家斉へ献上された『新編武蔵風土記稿』や、吉田東伍『大日本地名辞書』(1907年)などは、旧仮名遣いで「オホソネ」とルビを振っていますので、昔は清音と濁音の両方の言い方があったようです。写真1の大曽根発見の埴輪については、回を改めてご紹介します。
読み方に加えて漢字表記まで異なっていることもあります。岸根町の水路(根川)には、1975年頃まで琵琶橋という橋が架かっていました。元はビワの木で作られていたといわれ、源頼朝が通ったという伝説のある橋です。江戸時代に石橋となり、その石材が今も残されています。下記の写真2をご覧下さい。明和5年(1768)に架けられた橋の石には「岸野根村」と彫られています。今は「きしね」ですが、昔は「きしのね」と呼ばれていたことが分かります。前述した『新編武蔵風土記稿』の献上本には「岸ノ根村」と書かれていますので(活字本は岸根村)、同じ読み方なら漢字表記にあまりこだわらなかったようです。
似たような例で、「もろおか」も今は「師岡」と書きますが、平安時代までは「諸岡」と書いていました(第72回参照)。460年程前に作られた『小田原衆所領役帳』によると、江戸衆の小幡勘解由左衛門が小机の「大豆津」に25貫文の役高を持っているのですが、この「大豆津」は昔から大豆戸のことだと言われています。大豆戸は、古くは「大豆津」と書き「まめづ」と言っていたのかもしれませんね。小股昭氏にご教示いただきました。
100年、1,000年といった長いスパンで物事を見ると、これまでとは違った世界が見えてきます。(S.H)
(写真1、『東京人類学会雑誌』の口絵)
(写真2、琵琶橋の拓本、小股昭氏採拓)
(2023年1月号)