第77回 おしゃもじ様から椎橋医院
- 2023.02.15
文章の一部を参照・引用される場合は、『大倉山STYLEかわら版!』(令和5年2月号)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。
大豆戸町の八杉神社には、拝殿の右手に境内社の祠があり、入口の上に何本ものしゃもじが釘で打ち付けられています(写真1参照)。珍しいですね。これは、おしゃもじ様信仰です。おしゃもじ様は咳にご利益があると言われており、喘息や百日咳、風邪などで咳に苦しむ子どもの快癒のために奉納したしゃもじでしょう。おしゃもじ様は、他所では小机の本法寺や綱島の祠などに今も残されていますが、昔は各地にありました。かつては村の中に医者がいませんでしたし、総じて人々の生活も苦しかったので、病気になってもなかなか治療が受けられませんでした。そうした時代に神様へすがるような思いでお願いした名残です。
こうした状況を変えようとしたのが、大豆戸の椎橋家第7代当主仁助(1868~1953)と第8代当主淳一(1892~1954)でした。
椎橋仁助家は大豆戸の旧家で、安山(やすやま)と呼ばれる菊名駅西側の丘の斜面に位置しています。明治22年刊行の『大日本博覧絵』にも父椎橋宗輔の名前で屋敷が紹介されています(写真2参照)。
仁助は、明治44年から大正13年まで神奈川県議会議員を務め、この間一時大綱村村長も兼ねていました。仁助は、中区の開業医を週に1、2回自宅に招き、病気に苦しむ村民の治療に当たらせたそうです。仁助の祖父第5代忠兵衛は、幕末から明治にかけて大豆戸村の名主をしていましたが、漢方医の心得もあった人物でしたので、そうした影響があったのかも知れません。
椎橋家は、宗輔・仁助と二代続けて政治家として地域の発展に寄与してきたことから、仁助は「町内のことは二代で十分やったから勘弁してもらえ」と言って、長男淳一を政治家にしませんでした。
淳一が医学の道を志した頃、この辺りの医療状況としては綱島で何代も続く山口医院が一軒あるだけだったそうです。父宗輔は「地域の人達が困っているからいいだろう」と賛成しました。淳一は千葉医学専門学校(現千葉大学医学部)を卒業して、大正8年に椎橋医院を開業しました。
後に港北区医師会の初代会長を務めることになる淳一は、困窮した人には金銭を度外視して診療をするような医師で、地域の方々から安山(やすやま)先生と呼ばれて慕われました。とにかく医師が少ないので、自転車や人力車に乗って、酷暑の夏でも厳寒の冬でも遠くまで往診に出かけていたと伝えられています。
大正12年(1923)5月1日発行『大綱時報』12号の統計表には、「医師 二人」と書かれています。山口先生と椎橋先生のお二人を指しているのでしょう。もしかすると、範囲を大綱村から現在の港北区域全体に広げても医師の人数は2人のままだったのかも知れません。日本医師会の地域医療情報システムによると、2021年11月現在、港北区内には病院7ヵ所、一般診療所289ヵ所、歯科201ヵ所、医師764人、歯科医師312人となっており、隔世の感があります。(S.H)
写真1 八杉神社の境内社 おしゃもじ様の謎については、次回に。
写真2 大豆戸村の椎橋宗助家 ちょうど東急菊名駅の上あたりから見た感じです。
(2023年2月号)