第86回 大曽根にもあった大倉山記念館
- 2023.11.15
文章の一部を参照・引用される場合は、『大倉山STYLEかわら版!』(令和5年11月号)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。
私たちは無意識の内に、今見ている地域の様子が昔からずっと同じだったと思い込んでしまいます。歴史を調べている筆者も、その一人でして、今回は古い地図から認識を新たにしたお話です。
港北区域では、中区にあった経済地図社が1959年から1989年まで「港北区明細地図」と題して、いわゆる住宅地図を発行していました。これを調べていて興味深いことに気が付きました。
大倉山記念館の建物(以下、記念館)は、1932年に大倉精神文化研究所の本館として太尾町(現大倉山二丁目)の丘の上に建てられました。その事から後年太尾町は大倉山へと町名変更しました。ですから筆者は、記念館は太尾町にあると何十年も思い込んでいました。
ところが、記念館内の東館部分、研究所事務室や図書館書庫などが入っている辺りは、実は創建時から1982年までは何と大曽根町となっていたのです。当時の太尾町と大曽根町の町境は、記念館坂を上って建物前広場に出て、そこからは道路を外れて記念館の中を縦断し、そのまま北上していました(下図の左側参照)。
1981年、大倉精神文化研究所は敷地を横浜市へ売却しました。横浜市はそれに伴い、梅林へと続く記念館脇の道路を拡幅し、東へカーブしていた部分をほぼ直線へと付け替えました。
翌1982年、大曽根町は地番表示から住居表示へと変わり、町名も大曽根台と大曽根一~三丁目になります。これに合わせて、横浜市は新しい道路を太尾町と大曽根台との町境としたのです(下図の右側参照)。
では、なぜ昔の町境が記念館の中にあったのでしょうか。
歴史的に、村境は尾根道で分かれることが多く、太尾村(大倉山)と大曽根村(大曽根台)の場合も、大倉山公園の辺りから太尾見晴らしの丘公園にかけて尾根道で別れていました。大倉山公園は整備されて尾根道が分からなくなっていますが、古くは、地図の赤色実線部分で、記念館手前の階段から記念館の正面、建物の中央部と東館の間を通り、梅林の北側にかけて尾根道が走っていたのだと思われます。(SH)
【地図】左は1980年、右は1985年の『港北区明細地図(南)』に加筆。赤実線が昔の町境(尾根道)で、赤い破線が新しい町境。
(2023年11月号)