第87回 「ちの池」から水を引こうか
- 2024.01.15
文章の一部を参照・引用される場合は、『大倉山STYLEかわら版!』(令和6年1月号)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。
大倉山記念館の建物は、1932年に大倉精神文化研究所の本館として竣工しました。連載第66回で、1931年の『土地宝典』を紹介したときに、大倉邦彦が大曽根台の北向き斜面に東横線の大曽根架道橋方面へ向けて細長く土地を買っていることから、道路をつくろうとしていたように思われると書きました。その目的が分かってきました。
ここで一つ訂正ですが、筆者はかつて地域文献を見て、「シリーズわがまち港北」第81回で大倉山や大曽根の辺りは1928年に水道が引かれたと書きました。大倉山記念館の設計はその翌年なので、最初から水道を使う計画だったと思い込んでいました。しかし、当研究所に残る資料によると、水道が敷設されたのは正しくは1931年でした。
1929年9月に建物の設計が完了し、同年10月30日に地鎮祭を挙行し建築工事が始まりますが、建物の水源を何にするかはこの時まだ決まっていませんでした。大倉邦彦は水源を求めて井戸を掘りますが、敷地内に水脈が見つかりませんでした。建築工事のために現場監督用のかなり大きな小屋が太尾の丘の上に建てられると、そこへは大曽根町のちの池からポンプで水を引き上げて使いました。細長く買っていた土地は、ちの池から水を引くための水道道だったようです。
ちの池は、今では西半分が埋め立てられて宅地となり、東半分は1969年に大曽根第二公園となりました。
昔のちの池は大曽根の大乗寺が管理しており、池の水は大曽根村と樽村で半分ずつ田の潅漑用水に使っていました。一日15,000リットル程の湧水量がありましたので、その一部を建築現場へ引いたのです。竣工後の建物でも使えるのか、東京市衛生試験場で検査してもらったところ、飲料には適さないとの結果が出ました。
一方で、邦彦に土地を売った東急の五島慶太からは、横浜市に水道敷設の計画があるとの情報が1929年3月頃からもたらされていました。大倉邦彦は、工事が進む中で、安価だが水質が心配な池の水か、安全だが値の張る水道水にするか悩みました。
建物は1931年竣工予定でしたが、工事が1年遅れたことが幸いします。1931年3月6日、綱島で太尾電話開通・水道敷設祝賀会が催されました。邦彦は水道水に決め、研究所からも祝賀会に参列します。
という訳で、以前紹介した細長い土地は、ちの池から水を引くための水道道でした。水道利用で不要になった土地は、後に売却します。
さて、建物の基礎工事として丘の上を掘削していたとき、土器や石斧、古代人の住居址などが発見されました。邦彦はとても喜び、遺物を大切に保管し発掘図面(下図)を描かせ、専門家にも調査を依頼しました。その成果は専門誌に掲載され、そこから思わぬ展開が始まります。そのお話は次回に。(SH)
大倉山記念館の平面図です。幾つも描かれている楕円形が遺物の発見された場所で、円の中心の赤丸は住居址の炉の跡です。