閉じる

大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第88回 大倉精神文化研究所内遺跡から「破壊サレタル古墳」へ

2024.02.15

文章の一部を参照・引用される場合は、『大倉山STYLEかわら版!』(令和6年2月号)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


 前回の続きです。1929129日、大倉山の丘の上、大倉精神文化研究所本館(現大倉山記念館)の建設現場から土器類が数点発見されました。建設現場からはその後も次々に遺物が発掘され、後に「大倉精神文化研究所内遺跡」(以下、研究所遺跡と表記)と名付けられることになります。感激した大倉邦彦は、翌193019日に文部省(現文部科学省)へ出土品を持参し、嘱託研究者古谷清の鑑定を受けます。

 遺跡が発見されると、現在では必ず調査をするように文化財保護法で定められています。これは1950年に定められた法律で、それ以前は発掘調査の責務はありませんでした。しかし古谷は、大倉邦彦に遺跡の場所と構造を記録するように助言し、大倉は現場責任者に命じて、平面と断面の2枚の実測図を作らせました。

 さらに古谷は、自身でも建築現場の実地調査をして専門誌に論文を掲載します。それを見た考古学者の八幡一郎、赤堀英三、森本六爾が見学に訪れます。その間にも建築工事は進捗していましたので、遺跡はすでにありませんでしたが、実測図面と出土品を見せてもらいました。八幡も専門誌に論文を掲載しました。森本六爾は、全国の土器を調査して『弥生式土器聚成図録』を編纂中でしたので、そこに南関東地方を代表する弥生式土器として掲載しました。

 こうして、研究所遺跡は一躍有名になりました。しかし、遺跡発見当時の日本考古学はいまだ黎明期にありましたので、大倉精神文化研究所では2012年に横浜市歴史博物館の協力を得て、現在の研究者による図面や出土品等の再調査、再評価を受けて『大倉精神文化研究所内遺跡出土資料報告書』を刊行しました。詳しくはそれをご覧ください。

 さて、大倉山を訪れた森本六爾は、「野帳」と名付けたノートにその調査メモを記録しました。それによると、森本以下3人は193063日朝9時、鶴見駅のプラットホームに集合して大倉山へ向かっています。工事現場では、現場責任者で図面を描いた石井延三から話を聞き、森本は「野帳」に遺跡の断面図や土器の絵等を書き残しています。

 このメモの最後に、不思議な記述がありました(下記参照)。「破壊サレタル古墳」です。左下に「以上太尾」とありますが、研究所遺跡ではありません。破壊サレタル古墳の土中からは刀身が発見されており、石室の石を使用して8代目冨川嘉七が「太刀不動尊」と刻んだ記念碑を建てていました。その裏面には明治20年(1887、亥の年)428日の発掘だったことが刻まれていました。

 関連しそうな資料を探してみると、大倉邦彦が研究所遺跡について書いた文章に、「丘上より発掘された多数の縄文式又は弥生式土器石斧並に炉趾は遠く先住民族の活躍を物語り、又隣接の古墳は皇紀初代の生活を伝へてゐる」とありました。この隣接の古墳が破壊サレタル古墳でしょうか。隣接地とは何処でしょうか。さらに次回へと続きます。(SH

第88回 大倉精神文化研究所内遺跡から「破壊サレタル古墳」へ 野帳170(文字起こしと矢印).jpg
森本六爾「野帳16」より。調査時のメモなので、誤字等が散見されます。
四角い枠が石碑で、陽は表面、陰は裏面を指すものと思われます。

大好き!大倉山の記事一覧へ