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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第92回 港北区に関する3つの質問

2024.06.15

文章の一部を参照・引用される場合は、『大倉山STYLEかわら版!』(令和6年6月号)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


今回は、港北区に関する3つの質問にお答えします。

① なぜ港北区というのですか?
 『港北区史』や横浜市市民局作成の『横浜の町名』等、どの資料にも横浜港の北側にあるという意味で港北区と名付けたと説明しています。
 そうすると、港南区は横浜港の南側だから名付けられたのかと思って調べてみると、実は区名を一般公募して、その中から区名審議委員会が決定したとしか書かれていません。港南区の名前の由来は良く分かりません。

② なぜ区域が今の形になったのですか?
 原因は人口増加です。港北区は、神奈川区の一部と橘樹郡・都筑郡の一部を合わせて1939年に誕生しました。その時は、現在の都筑区・青葉区・緑区を含む広大な区域でした(下図参照)。その後、1966年の田園都市線(溝の口-長津田間)開通により人口が増加してその対応として1969年に2つに分区し、さらに港北ニュータウンの建設に伴う1994年の行政区再編成を経て、今の形になりました。

③ 区役所・消防署・保健所等の位置はなぜこの場所なのか? 不便です!
 港北区が誕生した時から、公共施設はその時々でより多くの区民が便利な場所を選定して造られてきました。結果として現状があります。
 大倉山で仕事をしている筆者にとって現状は便利ですが、別の地域の方は不便を感じておられるのでしょうね。
 1939年に港北区が出来る時、区内を走る鉄道は横浜線と東横線だけでした。まだ自家用車を持つ時代ではありませんでしたので、人々はバスや自転車、徒歩で駅へ行き電車で移動していました。横浜市会では、区役所の場所を選定する時に、区域のどこからでも交通の便利な場所に設置するという観点から、横浜線と東横線の交差点にあたる場所が良いと考えて菊名駅周辺を選びました。
 戦後の高度経済成長期になると、道路が整備されて自家用車が増え、車で来庁する区民が増えていきました。手狭になった区役所総合庁舎と消防署は、1978年に菊名から現在の大豆戸町(最寄りは大倉山駅)に移転しました。この時は移転先として、消防車や救急車が直ぐに出動できる場所で、車で来庁する利用者の一時駐車場が広く確保できる所が探されました。綱島も候補地になりましたが、片道1車線の道路に数多くのバス路線が集中しており慢性的に道路が渋滞していたことから、候補から外れたそうです。
 現在、大豆戸町内の環状二号線沿いに数多くの公共施設が集中しているのは、こうした理由からだと思われます。

 1994年に現在の港北区が誕生しました。区域がさらに狭くなり、その一方でバス路線や鉄道網がたくさん整備されて利便性が向上したことと道路の渋滞により、自家用車で来庁する人の割合は減りつつあります。さらに近年は、住民の意識やライフスタイルが変化し、高齢者にも優しい立地が求められるようになりました。狭い港北区内には13ヵ所計21駅(複数路線のため)があります。駅前に公共施設が欲しいと考える人が増えていますが、駅の周辺は用地取得が困難であることから、近年では市内のどの区でも、駅に近接した複合施設の中に公共施設が入るようになりつつあります。(SH)

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