第93回 大山信仰と雨乞い―その1―
- 2024.07.15
文章の一部を参照・引用される場合は、『大倉山STYLEかわら版!』(令和6年7月号)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。
大倉山駅から大倉山記念館へ向かう坂道を、記念館坂といいます。下の写真は、記念館坂の途中から見た富士山です。富士山の左手前で尖っている山が大山です。高いビルがなかった昔は、港北区域のどこからでもよく見えた景色です。大山の阿夫利神社に鎮座しているのが大山祇神(おおやまつみのかみ)、富士山の木花咲耶姫(このはなさくやひめ)はその娘です。父と娘が並んで見えています。
この大山の神さまを信仰する民間の集団を、大山講といいます。江戸時代、大山講はどこの村でも組織されていました。大山講は民間信仰なので、統一されたルールがあるわけでは無く、各講によって活動内容は少しずつ違っていました。以下、『港北百話』や『都筑の民俗』を手がかりとして概要をご紹介しましょう。
大山講では、講内の各家から毎月少しずつ費用を積み立てて、年に一度数名の代表者が大山詣りをしました。これを代参といいます。
大山は、伊勢原市・秦野市・厚木市の境にそびえる1,225メートルの山です。江戸時代、参詣者は徒歩で大山を目指しました。各地から大山へ行く道を大山道、大山街道といい、主要な道が8本ありました。最も代表的な道が、江戸城赤坂御門から大山へ向かう青山通り大山道で、矢倉沢往還、厚木街道とも呼ばれました。ほぼ現在の国道246号になります。この近所では、溝口から荏田、長津田を通っています。
明治になり鉄道が開通すると、横浜駅から東海道線平塚駅へ出たり、横浜線の原町田駅(現町田駅)で小田急に乗り換えて伊勢原駅へ行きました。港北の地から大山まで、自転車を漕ぐ人もいました。自動車を使うようになるのは戦後のことです。
参詣する人の世話をしていたのが御師(おし、明治以降は先導師という)と呼ばれる神職であり、御師の宿坊(しゅくぼう、旅館)でした。宿坊は、こま参道と呼ばれる辺りに沢山ありました。御師は、年末になると各村を廻ってお札を配ったりもしました。
大山に着いた代参者は、宿坊で行衣(ぎょい)を借りて着替え、まずは標高696メートルにある大山阿夫利神社下社に参拝します。かつては宿坊から下社まで歩いていましたが、現在はケーブルカーがあります。さらに下社から本社がある1,225メートルの山頂まで、昔の人は草鞋履きで登っていました。
大山阿夫利神社を参詣すると、その後に江ノ島の弁財天を廻って帰ることもありました。これは、大山の神様が男神なので、「片詣りはいけない」と言って、女神である弁財天も参詣したのです。まあ、行楽をするための言い訳でしょうね。
村に帰ると、講内の各家に大山のお札を配り、買って来た御神酒を振る舞い、費用の精算をしました。
江戸時代、大山へは年間20万人が参詣したといわれます。なぜそれほど賑わったのでしょうか。紙面が尽きましたので、その話は次回に。(SH)
2024年3月27日撮影、この時期にしてはとても空気が澄んだ朝でした。