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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第98回 地名の話、新横浜―幻のモノレール新横浜駅―

2025.01.15

文章の一部を参照・引用される場合は、『港北STYLEかわら版!』(令和7年1月号)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


 前回の続きです。197511月に新しい町名として「新横浜一~三丁目」が誕生しました。駅名の新横浜は196410月の東海道新幹線開通と共に誕生しましたので、駅名が町名になったものです。これは、大倉山駅の名前が元になって町名が大倉山一~七丁目になったのと同じです(本連載第71回参照)。ただし、大倉山が太尾町からの町名変更だったのに対し、新横浜は5町の一部を分離して生まれました。

 横浜市市民局が編集・発行した『横浜の町名』によると、新横浜は「鳥山町、岸根町、篠原町、新羽町、大豆戸町の各一部から新設した町」と説明されています。このように並べて書くと、この5町が新横浜に占める面積の割合が分かりません。最も広い面積を占めるのは篠原町であり(前回の地図参照)、岸根町と鳥山町からも少しずつ、大豆戸町と新羽町から分けられた土地はほんの僅かです。鶴見川を挟んで新横浜の対岸に位置している新羽町が入っているのは、鶴見川の氾濫蛇行に伴って生じた飛び地が、新横浜側にあったからです。

 町名の由来となった新横浜駅は、1964年に東海道新幹線と横浜線の駅として誕生しましたが、その駅名の由緒は1939年から始まった通称「弾丸列車計画」まで遡ります(「わがまち港北」第163回参照)。この計画、当初は既存の駅に弾丸列車を乗り入れようと考えましたが、工事上の難点等から菊名駅の近くに新駅を造る案に変更され、それが新横浜駅と仮称されました。しかし、戦争の激化で計画は実現しませんでした。それを戦後に復活させたのが東海道新幹線であり、新横浜駅になります。

さて、新横浜駅には1985年に市営地下鉄ブルーラインが横浜駅から延伸され、1993年には新横浜駅からあざみ野駅まで延伸されました。2023318日には相鉄新横浜線と東急新横浜線の相互直通運転も始まりました。こうして、新横浜駅には現在5路線が乗り入れていますが、実は幻に終わった路線もありました。

 かつて新横浜駅にモノレールの駅を造ろうという計画がありました。新横浜駅を起点として、川崎駅前を通り東京湾へ出て、東京湾横断橋に併設された軌道を通り、千葉県の木更津へ至る延長46.5㎞のモノレール路線を造ろうという計画です。

 東京湾を横断する道路計画は、1961年に提言され、1966年から建設省(現国土交通省)が調査を開始し、1989年に着工して1997年に東京湾アクアラインとして開通しました。

 建設省の調査が完了する1982年に、社団法人日本モノレール協会は横断道路に鉄道を併設するならモノレールが最適であると考えて、自主的に検討委員会を組織します。その検討内容の中間報告として、協会の機関誌『モノレール』19833月号に、上記の案が掲載されました。

 もしこれが実現していたら、房総の人たちはモノレールに乗って新横浜に来て、東海道・山陽新幹線で関西方面へと移動するようになっていたでしょう。多様な路線のターミナル駅のある街として、新横浜は今以上の変貌を遂げていたかも。初夢として想像してみると興味深いですね。(SH)

第98回 1984年の写真.jpg1984年、新横浜はまだ空き地が目立っています。
横浜アリーナも日産スタジアムもありません。(国土地理院の空中写真に加筆)

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