港北七富士めぐりの資料
- 2022.03.26
本日の見学目的
- 富士塚登山
- 公園散歩と花見
- 庶民信仰としての富士山信仰について学ぶ
- 都市開発と伝統文化の保存・継承について考える
見学ルート
江田駅 → 歩道橋 → 新横浜元石川線の脇を歩く → 坂を上ると第3公園(荏田富士) → 坂の下に「富士塚」バス停 →市バス(301系統)乗車 → 「池田」下車 → 鴨池公園・鴨池 → グランド脇 → メゾン桜が丘の脇 → 朝霧橋 → かりん公園 → ゆうばえのみち → バス停「夕やけ橋」 → 地下鉄工事現場 → 川和富士公園・公園トイレ → 伊藤忠ビルを回り込む → 川和東小学校 → 「左かわわ、右さえど」の道標 → 都田(つだ)公園の脇 → こぶし公園 → 横浜上麻生線の歩道橋を渡る → 農業専用地区 → 池辺富士 → 環境事業局都筑工場 → 都筑プール → 都筑ふれあいの丘 → ふれあい歩道橋 → 葛ヶ谷公園 → 茅ヶ崎富士跡 → ささぶねの道 → 大原みねみち公園 → 自性院 → 港北東急 → センター南駅
・江田駅、荏田富士、バスで池尻橋までは青葉区、その先が都筑区。青葉区の説明
- 昭和14年港北区の成立
- 昭和41年10月に田園都市線が開通して、沿線の人口が急増
- 昭和44年10月に港北区から緑区が分区
- 港北ニュータウンの開発により人口増加
- 昭和52年田園都市線と新玉川線の乗り入れ開始。54年には地下鉄半蔵門線も乗り入れ。
- 平成6年11月6日に港北区と緑区を再編成して、青葉区と都筑区が誕生
荏田と江田の説明
- 「荏田」とは、古い言葉で「湿田の地」を表していた。早渕川沿いの地域で、昔は水はけが悪かった。
- 昔、豪族の「綴党(つづきとう)」の根拠地だった。この綴党の中に、江田(江田)源三(えだのげんぞう)という人がいて、源義経に仕えて活躍した。江田(荏田)城をつくったといわれる。源頼朝が1190年に上京したときに従った家人の中に、江田小次郎(えだのこじろう)がいた。
- 地名には「荏田」、新しい施設や建物には「江田」の文字が使われることが多い。
江田駅
「現在この付近の地名は『荏田』と書かれているが、建久年間にこの土地に江田小次郎という豪族がいたことから『江田』と呼ばれるようになった。そして江戸時代には徳川幕府の化粧地で、江田城もあったといわれる。『江田』が『荏田』に変わった時点は記録になく不明である。『荏』は当用漢字にないので、昔使用されていた『江田』を駅名とした」(東急広報課『駅名はこうしてつける』)
荏田城
- 後北条時代に小机城(南武蔵支配の拠点)の支城として、鶴見川沿いに荏田城、茅ヶ崎城、池辺城、川和城、佐江戸城、山田城、大曽根城、大豆戸城、篠原城などを配した。
大山道
- 江田駅前を東急田園都市線とほぼ平行して走る国道246号線が、昔の大山道とほぼ同じ道筋。東京の赤坂見附からはじまり、大山に向かう道で、江戸時代、大山参りでにぎわった。
- 富士山へ向かう富士講の一行でもにぎわった
- 国道246号線と並行して走る尾根道は、鎌倉街道の「中ノ道」にあたる。
荏田宿
- 荏田は江戸時代から栄えた宿場町(旅籠3軒と商家18軒)で、駅前から北東側に少し行ったあたりに宿場があった。明治27年の大火でかつての面影を無くしたが、現在でも屋号を残す家が多い。
- 渡辺崋山『游相(ゆうそう)日記』...江戸を旅立ち、最初の日に荏田宿に泊まる。宿の主人の話に「近くの山にオオカミが住み、犬を喰い、夜な夜な往来に出て人をうかがうので、人家も戸を閉め、夜は外に出ない」
荏田富士(荏田第3公園)
- 荏田第3公園の南方約20メートルほどの場所にあったが、発掘調査後に削られた(都筑の民俗)。
- 富士塚は、現在の荏田団地内にあった。富士山のよく見える山地で、2分くらいで登れた。関東大震災の時に崩れたので、講員があつまって土を突き上げたという(緑区史資料編2)。
- 団地建設のために壊され、代わりの富士塚を東急建設が造った(緑区史資料編2)。
荏田富士塚
- 「山真講」の布教による講があった。山真講は北山田、緑区上谷本、大場、川崎の早野などに講集団があった(都筑の民俗)。
- かつての富士塚からはよく富士山が見えた(都筑の民俗)。
- かつては、毎夏、この富士塚に講員が「六根清浄」をとなえながら登り、富士を拝した。先達は柚木と渋沢に一人いた。大正末に70余名の講員がいた。毎月金を積み立てて、2、3年たつと富士山に登山した。富士登山の最後は昭和9年という(都筑の民俗)。
- 講は、昭和20年頃になくなった(都筑の民俗)。
市バス
- 営業キロ数......559.7キロ(平成12年度末)
- 車両......1018両
- 乗車人員......1日約46万人、運賃収入7500万円
- 平成12年度収支......7100万円の赤字(累積赤字57億円)
都筑区の説明
- 昔、豪族の「綴党(つづきとう)」の根拠地だった。この綴党の中に、江田(江田)源三(えだのげんぞう)という人がいて、源義経に仕えて活躍した。江田(荏田)城をつくったといわれる。
- 1994(平成6)年11月6日、港北区と緑区の再編により誕生。
- 都筑郡に由来するが、これからのまちづくりが新しい「みやこをきづく」という願いを込めている。
- 池尻橋の西側に「富士塚隧道」あり、ぬけていくと小さな「振袖公園」へ
鴨池公園(かもいけこうえん)
- 歩道橋を越えて東に行くと、ログハウス(18区に1つずつ)「かもいけランド」がある。綱島のモッキーより楽しい。
- 港北ニュータウン地区では比較的早くから開園した公園で、「生物相保護区」が設けられている。
- 池は湧き水を利用している。トンボやホタルの繁殖池でもある。
- 地域の人達で作っている鴨池公園愛護会があり、管理をしているらしい(平井は未確認)
ハマふれんどスポーツプラザ
- (財)横浜市勤労福祉財団の野球場、平成14年3月21日閉鎖。
多摩田園都市
- 「田園都市」...19世紀末に英のハワードが提唱した田園的環境をもった職住接近の理想都市構想
- 港北ニュータウンの西側と北側に広がる
- 昭和31年に第1次計画(4000ヘクタールに人口30万人)を策定
- 昭和38年に名称を「多摩田園都市」とする
- 昭和41年に街づくりのコンセプトとなる「ペアシティ計画」作成
港北ニュータウン
- 開発前は、雑木林・山林・田畑が90パーセントを占めていた、地域の人口は11,400名
- 横浜市の6大事業の1つ
- 昭和40年代になり開発の手が伸びてきたので、48年に横浜市が中心となり住宅・都市整備公団も加わり、事業計画(2530ヘクタールに人口30万人)を策定した。
- ①計画的に開発する、②都市での農業をしっかり行う(全体の10パーセントを農業専用地区にする)、③市民参加のまちづくりをする
- 町作りの基本 ①緑を保つ、②ふるさとを偲ばせる、③安全、④よりよいサービスを受けられる *財団法人港北ニュータウン生活対策協会
- 昭和58年8月から集合住宅の入居を開始
- 早渕川をはさんで、北地区と南地区に分かれる
地域内の遺跡
- 約500カ所、7割が縄文遺跡(4500年前縄文中期が人口のピーク)
- 弥生中期に再び人口増加......谷戸を拓いて稲作を始める
- 朝霧橋の脇にバス停「見花山(みはなやま)」
見花山の地名の由来
- 昔、川和は5つの村と接していて、土地境の争論が絶えなかったことから見花山と書いて「けんかやま」と呼ばれていた。川和富士ができて、花見の場所として親しまれるようになり、見花山(みはなやま)と呼ばれるようになった。
- 先土器時代の石器が発掘された「花見山遺跡」と「けんか山遺跡」がある
- ケヤキ通りをまたぐのが「夕やけ橋」、その下がバス停「夕やけ橋」
市営地下鉄
- 営業キロ数......40.4キロ(平成12年度末)
- 車両......228両
- 乗車人員......1日約41万人、運賃収入7500万円
- 平成12年度収支......約182億円の赤字(累積赤字2400億円)
地下鉄工事現場
- 市営地下鉄4号線(中山-日吉間)......13.1キロ
- リニアモータ推進方式
- 総事業費......3000億円
- 用地取得......55パーセント(13年12月末)
- OKストアの近くに「葛が谷駅」
- 平成19年開業目標
富士山
- 約5000年前にほぼ現在の形となった
- 伝説......第7代孝霊天皇5年に、一夜のうちに大陥没で琵琶湖が、同時に大隆起で富士山が誕生した
- 噴火......全記録は17回
- 781年~1083年までに13回
- 1707年(宝永4)の大噴火が最後
- 江戸でも強い地震、鳴動、爆発音、黒雲により昼間も行灯、降灰による風邪の流行
- 荒ぶる神として、富士講隆盛の一因となったか
富士登山
- 最初......聖徳太子、役小角とする説あり
- 記録......1149年、駿河国の末代(まつだい)上人が山頂に大日寺を建てた記録あり
- 開山......7月1日~8月26日の火祭りまで(近年は8月31日まで)
- 旧暦は6月1日~7月27日
- 女性......不浄とされ、吉田口は二合目まで、村山口は一合目までしか登れなかった。御縁年には、吉田口は4合5勺まで登ることがゆるされた(緑区史資料編2)。
- 1866年(慶応2)、イギリス公使パークス夫人が女性として初めて登山した。
富士信仰(浅間信仰、せんげんしんこう)
- 山岳信仰の1つとして、古代からあったが、富士山は神そのもので、登山せず遙拝していた(噴火が多かったためか)。この神は浅間大神で、その正体は木花咲耶姫とされる(一説にかぐや姫)。
- 中世には、修験道が中心。
- 近世になり、長崎生まれの長谷川角行(かくぎょう)が富士講を組織した。
富士講
(歴史)
- 近世初期に長谷川角行(かくぎょう)(1541~1646)が教義(身禄行法を唱え、神儒仏一体を説く)を整え、その布教のための信徒組織をつくった。
- 角行-○-○-○--月行-食行身禄(身禄派)-伊藤聡参行-小谷三志(不二道)
-高田藤四郎
-月心-村上光清(光清派) - 食行(じきぎょう)身禄(みろく)(身禄は弥勒の替字)が江戸を中心に講社を発展させ、1733年(享保18)7合目5尺で入定。
- 近世中期以降、江戸を中心ににぎわい、江戸では八百八講といわれるほどであった。
- 身禄派と光清派に分かれたが、身禄派が優勢
- 幕府は、「新儀の異法」として弾圧した(1742、75、95、1802、14、42、50)
- 明治以降は、教派神道として再生し、扶桑(ふそう)教、実行教、丸山教、富士教の諸派に分かれた。
- 大正12年の関東大震災以降、東京の講社は激減した。
- 1860年(万延元)は富士山御縁年(庚申年)に当たり、幕末期のピークであり、次の大正9年庚申年を最後に富士講は衰退していった(緑区史)。
(祭神)
- ・元のチチハハ......天地万霊の父母
- ・仙元大菩薩......浅間菩薩のこと(木花咲耶姫の変身か)
- ・南無長日光菩薩......日月星を神格化したもの
(主な活動)
- 富士山への登山参拝(登山できない人へは、遙拝所としての富士塚)
- 寄進
- 富士講の人々は、講の発展や先達の発願成就を記念して碑を建てたり、富士塚を築いたりした。
- 先達......霊験を説いて信徒を集め、富士山への登山参拝を引率する
- 講元、世話人、講員、信者
- 潔斎......信徒は、登拝前に3日または7日の精進潔斎をする。
- 登拝......白衣を着て鈴と金剛杖を持ち、「六根清浄お山は晴天」などと唱えながら登る。
- 富士講は、富士塚や浅間神社のない村でも行われていた。折本がそうで、「浅間講」といった(都筑の民俗)。
富士塚
- 実際に登山できない人のために、地元に作った遙拝所
- 室町頃から造られていた
- 富士講によるものは、1779年(安永8)の富士行者高田藤四郎による「高田富士」(新宿区戸塚1丁目水稲荷社境内)の造築に始まる。富士山の溶岩「黒ボク石」を山麓から運んで積み上げたもので、①頂上に浅間菩薩、②山裾右手に胎内洞穴、③中腹に小御岳の社、④左手に身禄の入滅した烏帽子岩を設けた......後の基本形
- 登山道、風穴、頂上の噴火口を基本とするともいう
- 江戸に造られたのは60、現存43といわれている
- 東京、千葉、埼玉、神奈川に多い
七富士参り
毎年6月1日は富士塚の山開きで、講員は先達に率いられて近くの富士塚に七富士参りをする習わしがあった。
- 菅田の丸金講
①下菅田の富士塚→②小机城址の富士塚→③東本郷の富士塚→④羽沢の富士塚→⑤上菅田の富士塚→⑥上星川の富士塚→⑦芝生の浅間神社→帰村
- 都内の七富士巡り
①品川富士→②千駄ヶ谷富士→③下谷坂本富士→④江古田富士→⑤十条富士→⑥音羽富士→⑦長崎富士
神奈川県下の「富士」のつく地名
①富士塚(港北区)、②富士見(川崎市川崎区)、③富士見(相模原市)、④富士見が丘(二宮町)、⑤富士見公園(川崎市川崎区)、⑥富士見町(茅ヶ崎市)、⑦富士見町(中区)、⑧富士見町(秦野市)、⑨富士見町(平塚市)、⑩富士見町(横須賀市)、⑪ふじみ野(平塚市)、⑫富士見橋(逗子市)、⑬富士見村(戸塚区)、⑭富士(ふじ)山(やま)(横須賀市)、⑮富士山町(中区)
川和富士(川和富士公園)
- 最初の川和富士は港北ニュータウン開発により取り壊された。
高さ...15間ほど(都田村誌)=約27メートル、海抜80メートル、底部直径...40メートル(発掘調査)
- 塚があった場所は、夕焼け橋側のダイハツのディーラーの角、このあたりを「賀々原」という。
- 賀々原では、寛文2(1662)年に池辺村と川和村の出入りがあり、裁許後に入会地となった。
- 安政4(1857)年に開墾がゆるされ、翌年村境が決定した。このとき、村役人が相談して富士塚を築くこととなった。
- 万延元年(1860)4月1日に着工......富士山御縁年の庚申年に当たり、幕末期のピーク
- 文久元、2、慶応3、明治元、2、10、11、15年と工事
- 明治18年9月13日の大地震で破損
- 明治20年1月12日の大地震で頂上部を破損
- 明治20年4月完成、27年間で延べ3120名の人夫、弁当29石7斗8升
- 明治24年4月15日に山開きをして、「浅間大神」の石碑を建てた(現在は、南西の八幡神社に移転)
- 昭和52年7月に取り壊した(緑区史資料編2)
川和富士塚遺跡
- 川和町2037、2038番地(全遺跡調査概要)
- 縄文の竪穴住居址と塚
- 塚は万延元年(1860)に着手され、明治24年(1891)に完成した富士塚で、富士浅間信仰として現在も行われている(1977年調査当時のことか)。関東大震災で上部1メートルほどが崩壊、再構築された痕跡がみられる。なお富士塚の由来については、川和町の岩沢金五郎氏所蔵の「万延元年四月日 富士塚築造控」(『都筑の民俗』に掲載)という文書がある。調査後、東南200メートルの公園内に新築された。
- 石碑「浅間大神 明治廿四年四月十五日 建立 川和中 庚申塔 明治廿四年四月十五日 森講中」
- 川和富士塚はこの地域最大規模をもち、入り組んだ境界争いをなくすために築造されたという由来が明らかである。
- 現在の川和富士は2代目。
- 高さ14メートル、標高74メートル。
- 頂上からは、富士山、ベイブリッジ、ランドマークタワーを見渡せる。池辺富士も見える。
- 10月頃、富士山に沈む夕陽は感涙もの。
- 公園のトイレの屋根も富士塚を模している。
- 公園ある一帯の地名を「富士見ヶ丘」と呼ぶが、川和富士があり、また富士山を望める住宅地として出来たので、地元の要望もあり、昭和61年に「富士見ヶ丘」と名付けた。
川和の地名の由来
- 古くは「河輪」「川輪」と書かれていた。八幡神社のそばを流れる谷本川が曲がりくねって輪になっていることから名付けられたといわれる。今でも、八幡神社のある字を「河輪森」という。
- ・川和東小学校(平成6年4月1日開校)
「左かわわ、右さえど」の道標
- 「佐江戸」の地名の由来......サエドとは「道祖(サエ)・処(ド)」であり、「道祖神を祀った所」の意であろう(『横浜の町名』昭和57年)。
都田公園
- もとの「二の丸公園」、地名が「二の丸」......川和城の二の丸に由来するか
都田(つだ)の由来
- 明治22年の町村合併の時、「都筑村」としようとしたが、旭区方面でも同じ希望があり、田の多い方を「都田村」、岡の多い方を「都岡村」と決めた。
池辺町
- いこのべちょう、いけべちょう、鶴見側沿いから都筑工場の南側までと広い地域
- 正式には「いこのべ」だが、通常は「いけべ」といい、学校でもそう教えている
- 「池辺(いこのべ)」の由来......『新編武蔵風土記稿』(昔、宗忠寺(そうちゅうじ)の前に池があったので村名に附けたが、今は水田になっている)
- ①NECの敷地の辺りに、赤池と呼ばれる大きな池があったため
- ②宗忠寺の前に大きな池があったため
- 池辺城......小机城の支城
- 農業専用地区......都筑区の農産物出荷額は、市内ではトップクラス。小松菜とホウレンソウが特産。
池辺富士(いけべふじ)
(1)星谷の富士塚(元富士)......1796(寛政8)年9月に建立
- 池辺町星谷の農業専用地区内にある。
- 頂上に寛政8(1796)年9月建立の石碑が建っている。
- 毎年6月1日に池辺の人々により塚の草刈りを行い、清掃後に作物を供え、豊作を祈願する行事が現在(平成7年『都田』)まで行われている。
(2)都田(つだ)小学校の裏山の富士塚(新富士)
- 明治の初めに池辺の富士講の先達が話を出して、村中で学校の東側の丘の高所に富士塚を築いた。現在は前面に工場が建ち並んでいるが、その頃は鶴見側に面した広い耕地で、眺望もよく、富士山が眺められる景勝の地であった(緑区史資料編2)。
- 星ヶ谷の元富士塚をそのままにしたので、その後、新富士塚の石碑が割れたり、村中の意見が事々に合わなかったり、新富士塚付近の家々の長男が続々と死んだりしたので、ある人が易者に見てもらったら、元富士を粗末にしたから、浅間様が怒っているのだといわれ、それからは6月1日には、町から新旧富士塚へ各千円ずつ出すことになった。現在(昭和49年頃か)、星ヶ谷六十余戸で、各戸20円程集め、御神酒をあげ、赤飯や煮しめを持ち寄り、稲荷講の太鼓や笛や賑やかに飲食する(神奈川の富士講)。
環境事業局都筑工場
- 所在地は「平台」、道路を渡ると「葛ヶ谷」になり、葛ヶ谷地域ケアプラザがある
- 昭和59年3月竣工、敷地64,218㎡、総工費287億円。
- 煙突の高さは120メートル、煙突から出ている煙は水蒸気である。
- 平成5年現在、市内5カ所(現在7カ所目を建設中か)のゴミ焼却場の中で最新、最高性能の工場。
- 標準で一日800トンのゴミ処理能力(最高1200トン)
- 都筑、青葉、緑、港北区のほとんどのゴミとも鶴見区・神奈川区の一部のゴミを処理。
- ばいじんは、大気汚染防止法の基準値の1/3以下
- 800~900度の高温で燃焼
- ゴミの臭気は、焼却炉の燃焼用空気として利用し分解する
- 余熱利用で温水プールや老人福祉センター・障害者研修保養センターの浴室へ温水の供給
- 12,000キロワットの蒸気タービン発電機で発電し、ふれあいの丘の諸施設や地下鉄駅舎・横浜国際総合競技場などへ送電、余剰電力は東電へ売却
都筑ふれあいの丘
- 「よこはま21世紀プラン」の1つとして、昭和59年10月竣工、総工費71億円。
- 都筑地区センター
- 障害者研修保養センター「横浜あゆみ荘」
- 老人福祉センター「つづき緑寿荘」
- 温水プール「都筑プール」......都筑工場の余熱を利用した温水プール。
- 富士塚を模して円錐形の屋根にしている。
地下鉄工事現場
葛ヶ谷公園(くずがやとこうえん)
- 広場の北の緑道を左に行けば「ささぶねのみち」を経て「鴨池公園」へ、
- 右に行けば「ささぶねのみち」を経て「大原みねみち公園」へ
- 「ささぶねのみち」
- 都筑中央公園から大原みねみち公園へと続く長い道。道沿いにせせらぎが流れる。
- 昔ながらの谷戸の風景を保存し、再現することを目指して造られている。木々がうっそうと茂る、樹木のトンネルのような道が続き、開発以前の都筑の姿が連想される。
大原みねみち公園
- 峰道(昔の旧道、山の稜線をはしる)が通っている。
- オオミチ(ヤトミチ)......山の裾をまわる
- ノミチ(サトミチ)......田畑にそってはしる
- 萌黄橋のところでは、市営地下鉄が地上に出て、高架橋になっている。
- 橋の向こうは「茅ヶ崎公園」となっている。
茅ヶ崎の地名の由来
- 「チカ (茅ヶ)」は、①ツカ(小高い所)の転用か、②チ(路、道)であろう。「崎」は町の北部(早渕川沿い)に北から南への谷戸の西側に突き出た地形を指すものか。したがって、①なら「小高い丘の突き出た所」、②なら「路の通っている崎」というほどの意であろう(『横浜の町名』昭和57)。
茅ヶ崎城
- 横浜でただ1つ、戦国時代の城郭の形を完全にのこしている城跡
茅ヶ崎富士
- 茅ヶ崎・中丸(茅ヶ崎町1776番地)にあった。
- 現在は東芝エレベーター(株)の研修センターとなっている(わが町の昔と今)。
- 頂上には富士浅間神社の石碑と二十六夜塔が建っていた。
- 富士の山開きのある7月1日、浅間神社の氏子や信者が集まって祭事を行った。また、村の有志でつくる富士講の講中は先達のもとに白衣をまとい杖をつき「六根清浄」を唱えて七富士巡りを行った。七富士巡りは①荏田、②川和、③池辺、④茅ヶ崎、⑤北山田、⑥新羽、⑦菊名を順次参拝して歩く(わが町の昔と今)。
- 最後は、塚の斜面まで畑とされ、3分の1くらい削られていた。
- ニュータウンの第1期造成で壊された、昭和50年代中~後半頃か。
- 昭和22年頃までは、方々の富士講の人が七富士参りにきていた。6月1日に富士の山開きにあわせて50人くらいが、杖を持ち白装束でお参りにきた。塚は自性院持ちなので、その世話人が、お参りの人が来る前に草刈りをした(都筑の民俗)。
- 講は「元一本講」で、これは新羽・高田・東方・新吉田等と同じく、鶴見区江ヶ崎の先達鴨志田与右衛門を指導者とした講である(都筑の民俗)。
茅ヶ崎富士塚遺跡
- 茅ヶ崎町1781、1782、1784、1785番地(全遺跡調査概要)
- 縄文の竪穴住居跡・炉穴と経塚
- 塚は経塚として築かれ、近世・近代になって二十六夜塚、富士塚として再利用された。
- 安政年間には二十六夜塚としての性格も有していた。
自性院(じしょういん、真言宗豊耶麻派明王山自性院)
- 元は荏田の観福寺(かんぷくじ)の住職が兼務していたが、現在は中川町の慈眼寺(じげんじ)(センター北駅前)の住職が兼務している。
- 以前は茅ヶ崎南4-6-10(旧茅ヶ崎1536番地)にあった。
- 昭和59年5月に茅ヶ崎町1904番地から移転した
- 不動明王と薬師をまつっている(わが町の昔と今)。
- 石碑「二十六夜塔 安政五午年七月吉日 茅ヶ崎村講中」
- 「富士浅間大神 明治十八酉年七月吉日 茅ヶ崎村」 *台座に「元一講社」
- 二十六夜講...陰暦1月と7月の26日の夜は、月光に弥陀三尊が出現すると信じられて、月待ちをした
- 池鯉鮒宮(ちりゅうぐう) *知立神社のことか
- マムシに噛まれた時にお参りするとよい。
自性院谷戸
- 現在の港北東急百貨店の所に自性院があり、その辺りの谷戸を自性院谷戸といった。
- 平成14年3月、東急1階の広場に子どもの遊び場として木製滑り台「都筑富士」が造られていた。
センター南駅
以上