綱島と港北の歴史をたずねて
- 2022.03.26
(港北シティガイド協会主催、見学会資料、2004年11月28日)
講師 大倉精神文化研究所専任研究員 平井 誠二
テーマ
①文化財と水めぐり......区内の文化財16件(国指定1、県指定3、市指定12)の内、8つを見られる。ため池・地下水(湧き水・温泉)・鶴見川など住民の生活と水の関係を見る。
②旧家の当主にお話を伺う
大倉山駅
- 大正15年(1926)2月14日、「太尾駅」として開業。
- 昭和7年(1932)3月31日、「大倉山駅」に改称。大倉山は駅から始まる。
- 現在の駅舎は、昭和56年4月から改修を始め、昭和59年(1984)に完成。ホームの位置を菊名寄りに80メートル移動し、ホームのカーブを緩やかにし、ガードの高さを4メートルに上げた。
レモンロード
- 昭和53年(1978)に区役所が移転し、アクセスロードとして改修。
- 大倉山駅から綱島街道までの約270メートル(広報420)。前川平吉さんの100万円の寄付から。
- 昭和56年~59年(1981~84)完成。店を1.5メートル後退させ、1.75メートルの歩道を付けた。
- 総費用14億418万3000円。
武田谷戸(大谷戸)
- 大倉山跨線人道橋の北側、谷戸の中央を東横線が縦断した。武田氏の末裔が住むという。
尾根道
- 峰道ともいう。昔の幹線道、山の稜線を走る。
- 根道(谷戸道、大道)...山の裾を廻る。
- 野道。
法華寺(天台宗)
- 熊野神社の別当寺だったが、明治元年(1868)の神仏分離令により分離。本尊は阿弥陀三尊立像。
- 本堂は昭和47年(1972)立て替え。
- 承安4年(1174)高倉天皇寄進の写経大般若教残欠を所蔵。
いの池
- 形が「い」の字に似ているから名が付いた。
- 1988年(昭和63)11月1日、横浜市登録文化財。
- 昭和10年頃まで、ここで雨乞い神事が行われていた。その時使った龍の頭の彫り物が博物館に残されている(広報375)。その始まりは、『熊野山縁起』によると、1174年(承安4)の大干魃に、高倉天皇の勅命により神社の別当延朗上人が木彫りの龍頭を12個作り、池の淵で雨乞いの儀式をしたところ、三日三晩雨が降ったという。
- 池の中央に水神社をまつり、弁財天がおかれていた。
- 例年8月1日に(池さらいをして)水神祭が行われている(1988年当時、広報S63.11)。
- 熊野神社では、古来正月14日に水口祭を行っている(1988年当時、広報S63.11)。
- 片目の鯉の伝説がある。
- 昔、熊野の神が誤って弓で片目を射られた時、池の鯉の目をくりぬいて代用した。それ以来、この池に鯉を放つと、すべて片目が潰れてしまう。ある時、この池の鯉を盗んで売ろうとした男がいたが、「この鯉は片目だ、熊野権現の池の鯉だろう」と一目で見破られたという(広報375)。
師岡熊野神社
- 神亀元年(724)全寿仙人が創立。
- 師岡一帯の土地を開いた全寿仙人が創立した。
- かつては関東の熊野信仰の拠点だったという。
- 『江戸名所図会』に俯瞰図が掲載。
- 平成16年(2004)10月~17年11月まで、120年ぶりの社殿改修中。
- 熊野郷土博物館
- 八咫烏と日本サッカー協会
- 筒粥神事......1994年(平成6)11月1日、横浜市指定無形民俗文化財。
- 天暦3年(949)正月7日、7歳の少女へ神託があってから毎年続く。平成16年で1055回。
- 小正月の神事として、1月14日寅刻(午前4時)のの池の水を汲み、大釜に神木梛木の5つ葉と米1升と鶴見川岸で取った27本のヨシの筒を入れ、午後4時(2時か)まで約8時間煮て、筒の中に入った粥の量で「かゆうら」をする(広報S58.1)。
- 占うのは、大麦、小麦、早稲・中手・奥の米から始まって、ひえ(稗)、粟、大豆、小豆(あずき)、大角豆(ささげ)、ふんどう(緑豆or八重なりあずき)、あさ(麻)、な(菜)、大根、荏(えごま)、ごま(胡麻)、きび(黍)、いも(芋)、そば(蕎麦)、霜粟(晩生のアワ)、夕顔(かんぴょう)、かいこ(蚕)、茶の各種の農作物の作柄など。
- しめよりの神事......昭和30年(1955)頃まで藁の大蛇を作り村境の木に架けるという神事を行っていたが、これは元暦元年(1184)源頼朝の発願により始められたと伝えられている。
のの池
- 熊野神社の社殿の裏にある。
- ここの水を神社の神事に使用する。
- 神社創建当初からの池。
- 一度も枯れたことが無く、溢れたことも無く、「禅定水」といわれる。
- 640年くらい前に、落雷で社殿を焼失したが、御神体・宝物類は全てこの池の中に入れて焼失を免れたと古記録に伝える。
熊野神社社叢林と市民の森
- 市民の森......1980年(昭和55)7月19日指定、面積5.2ha。
- 平成3年(1991)、県の天然記念物に指定。市街地にありながら、極めて自然に近い常緑広葉樹林として貴重。
師岡貝塚
- 平成6年(1994)11月1日、横浜市指定史跡。縄文海進によって形成された古鶴見湾岸に分布する約30ヶ所の縄文時代前期貝塚群のうちで保存状態が良好であり、市域では類例の少ない中期前半の貝塚として学術的価値が高い。
- 権現山の東斜面、昭和50年代に発掘、東西20m、南北15m、縄文前期から中期。
綱島街道
産ヶ坂(うぶがさか、おぼう坂)
- 三菱病院の先(南側か)のガソリンスタンドの前の坂(わたしたちのおおそね)。太尾町バス停前(北側か)の坂(広報S58.7)。
- 血の池伝説① 女六部(乞食)が、ここで子供を産んだが、通りかかる人もなくて、ちの池まで来たところで力尽きて池にはまって死んだ。翌朝、人々か集まってみると、池の水が真っ赤に染まって、血の池の様だったことから、池の名と坂の名が付いた。
盗ッ人ヶ谷戸
- 産ヶ坂のあたりは、樹木が鬱蒼としていて、昼なお暗く、里人も近寄らなかった。
氷場
- 三菱病院のあたりに、「氷室」と呼ばれる土地がある(『大曽根の歴史』)。
ちの池(大曽根第二公園、ちの池公園)
- もとため池で農業用水に使用していた、昭和44年に児童公園になった。
- 池の広さは、3306㎡、樽村に流す水と、大曽根村に流す水の水門があったが、文化年間(1804~17)に中央を仕切った。今の公園はその東半分の樽村分で、西の大曽根分は宅地になっている(わたしたちのおおそね)。
- 妊婦が通りかかると、六部の霊に池へ引き込まれたという。
- 血の池伝説② 池に生えているマコモが、秋になると赤みを帯びて水が赤く見えた。
- 血の池伝説③ 水争いがあり、怪我人の血で池が染まった。
大曽根商店街
- 1980年頃、毎月第3日曜日朝市のにぎわい(『とうよこ沿線』1)。朝市は今も続く。
太平館(元は共立湯)
- 昭和24年創業。ラジウム鉱泉の銭湯。区内の銭湯は12軒、内5軒が温泉。
- 営業時間(15:30-23:30)、入浴料は、大人400円、中人180円、小人80円。金曜定休。
菖蒲園
- 樽町二丁目1-1(宮川製作所の裏辺りか)。東急が昭和8年(1933)開園、3年で閉園。水田4000㎡に5万株。
- 大倉山の梅、綱島・樽の桃、鶴見川岸(大正堤か)の桜、大曽根の梨など花の名所が多かった。
ラヂウム霊泉湧出記念碑
- 大綱村長飯田助大夫快三は、天然氷の事業をしていたので、水質検査が必要と考えて依頼したらしい。
大綱橋
- 1405年(応永12)に綱島橋(少し下流、旧大綱橋)が架けられた。江戸時代は7年に1度位補修をしていた。
- 明治22年に大綱村が出来た時から「大綱橋」となった。
- 現在の橋は、西側が昭和45年(1970)に、東側が昭和52年(1977)に竣工。
- 下流に鷹野橋、江戸時代の鷹場のなごり。
鶴見川
- バリケン島ビオトープとピーチ花壇。
- 明治43年の大洪水を契機として、県が中心となり両岸の堤防を改修し、大正3年に完成記念として桜並木を作り、名所となった。
京浜工事事務所綱島出張所跡地
- 平成15年(2003)に、河川事務所と改称し、小机の流域センターへ移転。
- 平成16年3月~12月、鶴見川警報設備の工事中。多目的遊水地から鷹野大橋辺までの5キロに11ヶ所。遊水地からの緊急放水を知らせるため。
池谷邸
- 南綱島村の旧名主家。
- 道太郎が桃栽培を近隣に広めた。
- 池谷光朗さん......桃をとおして、綱島の活性化に取り組んでいる。自宅前に桃畑。区役所屋上に植樹も。
- 書院と土蔵の間に「お鷹部屋」があった。
- 野廻り役の池谷重兵衛は分家(広報414)。御拳場、御捉飼場と鷹匠。
日月桃......明治40年(1907)、池谷道太郎の発見
- 桃は水害に比較的強く、綱島の砂質土壌が栽培に適している。
- 極早生で小振りの品種。最盛期、288万個の生産。
- 1970年頃最後の1本が枯れる。1998年(平成10)につくばの果樹試験場から接ぎ木。
東京園
- 元は東急電鉄が昭和2年(1927)4月に営業を始めた「綱島温泉浴場」。入場券付き電車回数券もあり。
- 後に東芝の保養所や兵隊の寮、臨時の小学校として使われたりした。東京園が引き継いだのは戦後のこと。
浜京
- 現存する数少ない綱島温泉の1つ。横浜市立学校教職員互助会の保養施設。一般利用可。
- 京都の料亭を擬した純日本家屋。横浜の「浜」と、京都の「京」。
鶴見川花火大会
- 昭和59年(1984)に始まり、平成11年(1999)7月30日の第16回(3,000発)で中止。
- 駅前の歩道のタイルに注目。
綱島駅
- 大正15年(1926)2月14日、「綱島温泉駅」開業。昭和19年(1944)10月20日「綱島駅」に改称。
綱島公園
- 享保年間(1716~36)に、朝鮮国王から献上された高麗キジを放鳥し村民に番をさせた(新編武蔵風土記稿)。
- 平成3年(1991)から「綱島桜まつり」を開催。
綱島市民の森
- 地域住民の生活サイクルから生み出された人工の雑木林......里山のかけら。
- 1991年(平成3)10月26日指定、6.0ha。
- 平成9年(1997)から「綱島桃まつり」を開催。
綱島古墳
・平成元年(1989)12月25日、横浜市指定史跡。鶴見川中・下流域の古墳の中で現存し、築造年代を知ることが出来る希有な例。
・平成元年発掘、直径20m、高さ3mの円墳、5世紀後半から末に構築。昔から「ちょうしん塚」と呼ばれていた。
・昭和19年(1944)に高射砲陣地として軍に買い上げられた。
陽林寺
- 大永7年(1527)開基か。元は池の上の観音様といった。城田家の菩提寺か。
- 戦国時代、城田家の初代兵庫之守弥三郎(藤原秀忠)の守り本尊の観音菩薩を安置している。
- 昔、谷戸から湧き出す水を貯める貯水池があった。
けつわり坂
- 陽林寺(昔は観音堂)の裏山の坂は、非常に急で湧水により滑りやすく、村人がよく大怪我をしたので名付けられた。
飯田邸
- 北綱島村の旧名主家。
- 住宅(主屋、表門)......平成6年(1994)11月1日横浜市指定文化財。
- 主屋...火災により明治22年(1889)再建。
- 表門...江戸時代後期の創建。
- 10代助太夫広配......明治初年に天然氷の製造・販売を始めた。寄場大総代、農兵隊組織。
- 11代助大夫快三......県会議員、大綱村長、鶴見川改修期成同盟会長。
- 12代助夫......大綱村長、県会議員、衆議院議員。『大綱時報』の発行。
- 13代助丸......市議、県議、県会副議長。
- 所蔵資料を研究する「飯田助夫研究会」
- 「古い家に住す人ほど、考え方は新しくなくてはいけない」
- 長屋門の前の右側に氷場だった池の跡がある。昭和40年代の初めまで子供がズックで滑っていた。
(参考資料)綱島温泉について (『楽・遊・学』107~110号より)
赤水
- ラジウム温泉は、昔より土地の人々から「赤水」と呼ばれ田の灌漑用として使われていた。しかし、灌漑用としてはあまり水質が良くなく、日照りで困った時以外は使わなかった。
- 綱島周辺では、赤水が自噴しているところもある。
- 普通は浅井戸を掘ると飲用に出来る水が出るが、地下70メートル位の深さを掘ると赤水が出るという。
- この水は、大昔の海進、海退によって地層中に閉じこめられた水を起源としている。
東横線開通前
- 大正3年(1914)、鶴見川の堤防築堤に際して、家を移転しなければならなくなり、加藤ジュンゾウ(順造、順三、純蔵の諸説あり。屋号を「杵屋」という)という人が新しく井戸を掘ったところ、飲用に出来ない茶色の水が涌いた。風呂水に使っていたところ持病のリューマチが治った。内務省に勤めていた親戚のつてにより、内務省東京衛生試験所(内務省温泉研究所は誤り)に水の成分分析を依頼した。検査した博士(石原、田原、長田の諸説あり)の結果によると、ラジウム沃土エマネチオンの含有量が国内で3番目(10.47マッヘ)に多い水であった。
- 源泉は、水温16度~20度の冷鉱泉、色は茶褐色のナトリウム-炭酸水素塩泉。神経痛、疲労回復、切り傷、火傷、慢性皮膚病などに効く。
- 樽村の小島孝次郎は、井戸から涌いた水を使って湯治場を作ったり、鶴見川を利用して、3日に1度舟にこの水を積んで鶴見方面の銭湯に運んでいた。1荷10銭。リヤカーで運んだともいわれる。
- 大正6年(1917)、樽にエイメイ館(永明、永命の2説あり)という銭湯ができたのが最初である。1回5銭で入れた。引き続き、樽に琵琶圃旅館、大綱館が出来た。
東横線開通後から終戦まで
- 大正15年(1926)2月14日、東京横浜電鉄神奈川線(現東横線)が開通し、「綱島温泉駅」が開業した。これと共に温泉もにぎわうようになった。
- 昭和2年(1927)4月、東京横浜電鉄が、「旅客誘致及土地開発の一助」(兼業認可申請書)として、綱島温泉駅前(現在の東京園の場所)に「綱島温泉浴場」を開場した。総建設費38,000円、土地3,372㎡。
- 当初は多摩川園(現在の東急多摩川線多摩川駅の近くに1924~1979年まであった遊園地)にならって遊園地にする計画であったが、資金問題から温泉浴場だけでスタートした。
- 入浴料は、当初1日10銭の予定だったが、開業直前に五島慶太専務(第16回参照)の命で20銭に変更した。
- 電鉄の往復乗車券所有者は入浴無料だった。
- 綱島駅西側低湿地は、区画整理が行われ、のちに綱島温泉旅館街として発展する。
- 綱島駅のまわりと大綱橋から(綱島街道の)旧道にかけて、にぎやかな温泉街となった。
- 大綱橋の近くには、八幡館という映画館ができ、みやげ店も立ち並んだ。
- 温泉を発見した杵屋は「ラジュウムまんじゅう」を、綱島の新杵は「ラジュウムせんべい」を売り出した。
- 神奈川県下有数の大温泉郷となり、東京に近いことと交通の便が良いことから、箱根に次ぐ遊客を招いた。
- 一時は「横浜の箱根」と呼ばれた。
- 昭和の初期には「東京の奥座敷」として有名になった。
- 戦前は「東京の奥座敷」として大きな温泉街に発展した。
- 杵屋の前には、昭和8年(1933)建立の当時の大西一郎横浜市長の筆になる「ラヂウム霊泉湧出記念碑」が建っている。井戸は碑から8メートルほど東によったところにあったが、綱島街道の拡張によって、舗装の下に埋没して今は見ることが出来ない。
- 昭和10年(1935)当時、綱島には47軒の旅館が建っていた。
- 昭和18年(1943)8月、近藤(壌太郎)県知事の命令で旅館営業は一斉に廃止させられた。
- 昭和19年(1944)10月20日、「綱島温泉駅」を「綱島駅」に改称。
- 温泉浴場は、(戦時中に?)東芝が寮(保養所ともいう)として買収した。戦時中は兵隊の寮として使われた。臨時の小学校として使用されたこともある。戦後、東京園が引き継ぎ公衆浴場を復活した。
- 華やかだった旅館街は、戦時中は軍需工場へかよう人たちの寮となったり、軍関係の宿泊施設になった。
昭和20年以降
- 昭和20年(1945)10月30日に復員してきたら、旅館は64軒あり、アメリカ兵の慰安所として徴用されていた。
- 戦後間もない頃には、芸者が100人以上もいたという。
- 戦後、「東京の奥座敷」として復活した。「関東の有馬温泉」とも称されたという。
- 昭和27年(1952)頃か、大衆浴場「行楽園」は、ラジオで「百円天国」と宣伝し、全国的に知られた。
- 昭和28年(1953)頃、50余軒の旅館や料亭があった。
- 昭和30年(1955)、南綱島に43軒、大曽根に1軒、樽に4軒の旅館があった。
- 歌手の三橋美智也は、北海道から上京し、東京園でボイラーマンをしながら歌の修行をしていた。昭和35年頃、綱島小学校の体育館建設募金に協力した。
- 最盛期の昭和30年代には、温泉旅館が7、80軒あり、芸者衆300人ともいわれた。
- 昭和39年(1964)に東海道新幹線が開通し、伊豆・箱根が身近なものとなるまで、綱島温泉街の果たした役割は大きかった。
- 昭和40年代初めまでは、綱島駅のまわりに温泉旅館が80軒も建っていた。
- 昭和46年(1971)をさかいに、旅館は急速に減っていった。
- 昭和50年(1975)頃、約70件の温泉宿があったという。
- 昭和63年(1988)当時、綱島温泉旅館組合の事務所はまだあったが、ほとんど活動していなかった。
- 東京園は、火災に遭い、昭和50年頃営業を中止していた。東京園は2度の火災を経ている。
- 平成6年(1994)2月、最後に残っていた温泉旅館・水明が廃業した。
- 現在は、東京園しか残っていない。
- 温泉街の面影は、横浜市立学校教職員互助会の保養所「浜京」くらいになってしまった。
- 平成13年(2001)11月現在、港北区内にはラジウム温泉に入れる浴場が6カ所(日吉湯、富士乃湯、浜京、東京園、太平館、しのぶ湯)ある。
以上